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ノラスコの聖ペトロ証聖者   St. Petrus Nolascus C.          記念日 1月 29日


 イスラム教を奉ずるサラセン人が7世紀の中頃から四方を侵略し、8世紀の初めにはスペインまで略取して、そのコルドヴァにも都をおき、大いに勢いを張った事は、西洋史に普く人の知る所であるが、ここに哀れを極めたのは征服されたスペイン人その他のキリスト教徒で、残酷なサラセン人達に奴隷としてこき使われ、死ぬるに勝った苦痛を嘗めながらも、自由を奪われた弱者の悲しさに、ただ泣き寝入りをするより外はなかったのである。
 その後10世紀から12世紀にかけて、キリスト教の諸小王国は決然起ってサラセン人等を撃ち、之を南方に駆逐したが、それでもその捕虜たるキリスト教信者等の悲惨な運命には変わりがなかった。そこで天主は彼等を救う為に幾人かの聖人を遣わし給うた。今日ここに語ろうとするノラスコの正ペトロもその一人に他ならない。
 彼は1182年南フランスのル・マ・セント・プエールという町に生まれた。父は騎士であったから、彼も子供の時から剣術や槍術を学んだが、学問はベルナルド修道会で習ったので、自然修道士等のよき感化を受けて信心を養われる所が多かった。
 15歳の折り、父に死に別れたペトロは、後同じ騎士となるにもイエズス・キリストの騎士たらんと志し、当時起こったアルビ派の異端討伐の聖十時軍に、モンフォールのシモン公爵の部下となって従軍した。然し公爵は彼の優れた学才を見抜き、自分がアラゴニア王から託されていた王子の教育を、更に彼に委ねたのである。
 その時から王子とペトロとの間には水魚のように親しい交わりが結ばれ、後年王子が即位してヤコボ1世となられてからも、彼は繁々と王宮に出入りし、王が奢侈安逸に馴れて天主の事、人民の事を忘れぬよう、よく教導の任を果たした。
 ペトロがサラセン人の奴隷となっているキリスト信者等の憐れな状態を知ったのはその頃の事であった。彼は惻隠の情に堪えず、彼等の救済を思い立ち、その為には自分の財産はおろか一身さえも犠牲に供して悔いない決心をしたのであった。
 そればかりでなくペトロは又明らかにそれに対する天よりの命令を受けた。1218年の8月1日、聖母が彼にお現れになって、回教徒の奴隷となったキリスト教徒を贖い返す修道会を創立せよとお伝えになったのである。
 翌日彼がヤコボ王の御前へ出てその事を申し上げると、王も同じくそういう聖母の御命令を受けたと言われた。また暫く前からペナフォールのライムンドという聖人も王に招かれてアラゴニアに来ていたが、その人もやはり聖マリアから同じ御言葉を賜ったという、ここに於いて三人は大いに驚き、バルセロナの司教ベレンガリオを訪問し、一部始終を告げ、いよいよ8月15日を期して「慈悲深き聖マリアの奴隷救済会」なる新修道会を創立した。
 これより既に20年ほど前、バルセロナに於いて騎士数人が同じ目的の下に一信心会を起こしたことがあったが、ペトロ等はその会の掟を基礎として新たなる戒律を作り、たちまち13人の同志を得る事が出来た。この彼の修道会が教皇グレゴリオ9世の認可を得たのは1235年の事であった。
 1212年サラセン人等は有名なトロサの激戦で一敗地にまみれ、殆どスペイン全土から掃討され、僅かにその南部なるグラナダを守るばかりとなった。ペトロは会の創立後間もなくその地に赴き。憐れむべき奴隷400人の為に身代金を出し、彼等を自由の身としてやったが、彼は又「奴隷なる信者等に自由を贖う場合、もし必要ならば己を人質として渡す覚悟を有す」という会の第4の誓願に従い、北部アフリカで奴隷の身代わりになって鎖に繋がれ獄に投ぜられていた事もある。その時サラセン人は彼を殺そうとして帆も櫂もない小舟に乗せ、海上に追放した。しかし彼は幸いに天主の御保護により、無事スペインのワレンシアに漂着することが出来た。
 それからペトロは、それらの苦労と老齢の為に我が身に衰弱を覚えること甚だしかったので、会の総長の職を後任に委ねて去り、爾後数年の余生を全く天主への奉仕と償いの業とに献げた。かくて生涯に豊かな功績を積んだ聖人は1256年、時もちょうど御降誕の聖夜にこの世を去って天国に生まれ、永福を楽しむ身となったのである。

教訓

 我等もノラスコの聖ペトロに倣い、もっと霊魂上、肉身上の慈善事業に心を傾け、時としてその為多生の困難や苦痛があるにしても、なお且つ他人を助ける事に力を致さねばならぬ。隣人を愛するのは、聖主に命ぜられた我等の大切な義務であるからである。